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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第1回インタビュー 上

第1回 下河辺淳氏インタビュー
日時:2003年10月27日午後1時30分~午後3時30分(2時間)
ところ:第12森ビル 下河辺研究室
インタビュー対象者:下河辺淳
インタビュアー:江上能義、眞板恵夫
同席者:佐藤敏広(総合研究開発機構政策研究情報センター長)
    島津千登世(総合研究開発機構政策研究情報センター)
記録者:眞板恵夫
※、発言者の敬称略


●沖縄とかかわるきっかけと最初の印象

江上:復帰のときの昔の話で申し訳ないのですけれど、その辺の話をお伺いしたいと思っています。1970年に山中(注・貞則)長官から行ってくれと言われて、そのとき初めて沖縄に渡られたと伺いましたが、その前からおそらく、沖縄に渡られる前から沖縄の返還の問題で仕事で(沖縄に)関わっていらっしゃいますよね。

下河辺:そうですね。楠田(注・實)さんという新聞記者が飛び歩いていて、楠田さんと親しくしていた関係でいろいろと沖縄のことを議論していましたからね。

江上:先だって亡くなられた方ですね。

下河辺:そういうのが山中貞則に知られちゃったらしくて、あいつを行かせようってことにしたらしいんですよ。貞則さんには悪口言って、沖縄にとってあなたは敵だと、島津藩の親分が沖縄をどれほどひどい目にあわせたかって言うことを反省しないと私は行かれないって言うと大笑いしていました。

江上:山中長官は以前から屋良(注・朝苗)さんとの関係で沖縄のことを良くご存知でした…。

下河辺:そうです。非常に詳しいし、親切でしたね。

江上:そうですよね。沖縄にとっては大恩人というか

下河辺:大恩人ですね。

江上:県民栄誉賞か名誉県民とかになられていますよね。

下河辺:そうです。沖縄って言うのは、復帰反対の青年がいっぱいいたわけですからね。沖縄からすると貞則が一番の敵なわけですよね。

江上:島津征伐の、ね。

下河辺:本土復帰なんて言っているのだから、けしからんって言う。

江上:そうですよね。沖縄で仕事に携われて、行かれる前に沖縄ってどういう印象だったのでしょうか。

下河辺:そのう、英語で暮らす県でしたよね。アメリカが占領している地域というのがやっぱりとても強い。それと同時に15、16世紀の琉球王朝のその歴史が伝統的に残っていましたよね。だから、日本というのは第三のテーマであって、第一が琉球王朝で第二が米軍の占領ってそんな感じだったんじゃないですかね。県民たちはその三派にみんな別れていきましたよね。それを全部に話ができるのはほとんど屋良さん一人だけだったのですよね。それは彼が教育者だから、県民が教え子なわけですよね。だから、先生として尊敬されているから話ができたんでしょうね。あれが政治家だったら、とてももめて治まらなかったんじゃないでしょうかね。

江上:そういう意味では屋良さんというのは、復帰の大きな変革期において理想的な指導者であったと。

下河辺:彼が居なかったらああはできなかったでしょうね。彼はなぜか福田(注・赳夫)さんを尊敬していて、自分が困ると福田さんのお宅に行って相談したりしてたんじゃないですかね。

江上:そうですね。福田さんとの関わりはずいぶん以前からですよね。

下河辺:おそらく教員であったころに、福田大臣とどこかでお会いになっているんじゃないですかね。

江上:福田さんが大蔵省の官僚だった時に。

下河辺:そうですね。

江上:大蔵省にお願いに行くときに。

下河辺:そうですね。屋良さんが私を先生と呼ぶものだから、いつのまにか
福田さんも私のことを先生と呼ぶようになった。先生って言うのは尊敬できない代議士のことじゃないかって大笑いしてたんですよ。

江上:やっぱり、沖縄に行かれて、やっぱり沖縄とは大変なところだと言うようなイメージをもたれましたか。

下河辺:大変と言うよりも、日本に返ってくると、一般の人達、政治への関心が歪んでいるでしょ。だけど、沖縄の人達っていうのは、政治っていうものに対して真剣でしたね。復帰することが良いかどうかなんていうのは、命懸けの判断ですよね。グアムなんかの方が故郷だって言う青年まで、出てきたわけですよね。それに、日本人の父と母から生まれた子だけじゃなくて、戦後のいろんな兵隊との間で生まれた子もいっぱいいましたからね。

江上:大変な状況だったんでしょうね、その当時は。

下河辺:そうですね。それにもかかわらず、ものすごく平和なんですね。それは婦女暴行とか、刑事事件は起こりましたけども、基本的にそのアメリカの兵隊で特に女性の将校なんかでも、武装なしで暮らせる島っていうのはアメリカ本土も含めてどこにもないんですね。

江上:ということは、政治的にはいろんなことがあって、生活そのものもはたからみて大変そうな割には、中に入って見ると暮らしやすい。

下河辺:そうですね。

江上:怖い事件とか事故しか報道されませんしね。沖縄って怖い島だなっていうイメージが強い。

下河辺:だんだんと日が経つと、戦争を直接経験した年寄りが少なくなって、戦争を知らない若者になってくるにしたがって、ますます平和な島でしたね。


●沖縄独立論について

江上:最初に沖縄に行かれて、屋良主席と会われて、屋良主席ともいろんな話をされたと思います。屋良主席とお会いしてホテルに帰ったら、若い人が来て、沖縄は独立したいんだと話したと。その方は吉元さんですか。

下河辺:いや、吉元じゃなくて、ですね。

江上:吉元さんじゃないんですか。

下河辺:はい。

江上:あ、そうですか。

下河辺:吉元はそのころは、なんていうか、日本の政府と、どういう風にやるかって方向に向いていましたから。

江上:むしろ、日本と協力してどうやってやるか。

下河辺:それは、良いか悪いかは議論していましたけども、その方向に向いて彼は一所懸命でしたからね。だから、来た青年たちは、私には名前も教えないという。

江上:名前を教えない。

下河辺:私に迷惑がかかるだろうと。

江上:どういうグループか、だいたいわかりますか。

下河辺:いろんな人がいましたね。確か十人近く来たと思うんですが。

江上:そうですか。そうすると、その当時の独立論者というと

眞板:年配層ですと、大宜味朝徳とか、仲宗根源和とか

江上:若い人ですよね。

下河辺:なんかねえ、飲み屋さんで小料理屋さんをやっている女性のところが集会場所みたいだった。私、その飲み屋さんへ度々行ってご馳走になったんだ
けど、名前は忘れちゃってどうしようもない。

江上:それは沖縄の桜坂ですか。

下河辺:そうですね。

江上:そうでしょ。だいたい場所はわかりますね。

下河辺:知事が西銘(注・順治)さんになったら、先輩なんでもっぱら桜坂で飲み食いして楽しくやっていたのですけどね。

江上:今でも桜坂の飲み屋街は少し残っています。

下河辺:そうですね。

江上:独立したいと言うそういった方々と下河辺先生は話しをなさったんですよね。

下河辺:そうです。私も独立した方がいいって言ったら、びっくりしていましたよ。先生がそうはっきり言うとは夢にも思わなかった、と。

江上:独立した方がいいと。

下河辺:いやいや、その独立した方が良いって言ったから、驚いたんですね。まさか、私が独立が良いなんて言うと思わなかったとびっくりして、びっくりついでにあんまり独立の話をしなくなっちゃったんですけどね。

江上:ああそうですか(笑)度肝抜かれちゃった。それはちょっとあまり、性根の入った独立論じゃなかったんですかね。勢いあまった独立論ですかね。(笑)でも、独立した方が良いとおっしゃったのは、それはやっぱり半分本音の部分が…

下河辺:そうです。

江上:ですよね。


●核抜き本土並み返還に大きな疑問

下河辺:核抜き本土並みっていう佐藤総理の方針っていうのが、私あんまり信じられなかったですね。核抜きっていうこともないんじゃないか、本土並みっていうこともありえないんじゃないか、と。もっと復帰するなら沖縄の真剣に考えた何かテーマを持たないとダメじゃないかと思ったんですね。

江上:30年たって振り返ると、それは名言ですね。そう思われたとはすごいですね。今の沖縄から見ると本当にそうですね。核抜きというのも、今の沖縄の人は信じていません、ですね。

下河辺:思えないですよ。

江上:思えないですよね。

下河辺:それで佐藤内閣がなんでそう言えたかっていうと、そのアメリカのほうが沖縄の返還にあたって核抜きと言っていないんですね。通常は置かないと、それと非常時には持ち込むと。持ち込むことあるべしという考え方なんですね。そしたら外務省としては、こちらが聞かない限り、持ち込んだと言わないで欲しいって意見なんですね。そして、聞いたら本当のこと言ってくれと言ったんですね。それで、佐藤内閣にそれでいいのかって言ったら、聞かないから大丈夫って言ったんですね。だから、密かに持ち込んで日本側はなんかまったく無視しちゃってという発想なんですね。

江上:事前協議の問題ですね。その辺のところは、楠田さんあたりも良くご存知だったんでしょうね。

下河辺:いやー、楠田さんがもっぱら、やったんじゃないでしょうかね。そういう段取りを。

江上:若泉(注・敬)さんも。
下河辺:そう、若泉先生が盛んにそういうのを調整したんじゃないでしょうかね。

江上:そういうわけで、核抜き本土並みというのは、やっぱり、先生もちょっとおかしいんじゃないかと思われたわけですね。沖縄もおかしいんじゃないかと思う人がいて、復帰そのものの在り方を問うような反復帰論というのが出てきていましたね。そういう人々の一部から、独立論が出てきたわけですけども、しかし、大半はそうはならなかった、ですね。

下河辺:大半というか、ぜんぜんならなかったですよ。

江上:やはり米軍統治下で経済的に劣勢下に置かれているのを日本に復帰したら、経済的に少し豊かになるのではないかというような期待も随分あったんでしょうね。

下河辺:いやーだから、経済的な面で生活考えたら、復帰して良いんだか悪いんだか、現実にはわかんなかったんじゃないんですか。まあ、日本の政府が全生活費を面倒見るとでも言ったら違ったでしょうけどね。本土並みって言っておしまいになっちゃったから、ちょっと暮らすのは不安な人もいたんじゃないですか。普天間の移転だってそうですよね。移転すると大変だという人も、少しいるんじゃないですか。やっぱりね。

江上:そりゃそうですね。


●普天間移設について

下河辺:普天間の移転先の反対者もいるけれども、生活費の軍事経済効果の費用も付くんなら、その方がいいんじゃないかっていう意見もでましたよね。漁民の方々の意見が反対なんだか、賛成なんだか、ちょっと複雑になっちゃったでしょ。

江上:そうですね。

下河辺:米軍が普天間を移転したい理由が、住民のことを考えた上っていうことを言っているけれども、本当は普天間の軍事的な技術が陳腐化過ぎて、使い物にならない、ということが本音だったんじゃないですかね。

江上:私もそう思いますけどね。

下河辺:データだってなんだって古くて、ダメって言うんで、滑走路だってあんな長い滑走路はヘリコプターにはまったく必要としなくなっていて、滑走路は40メーターでいいなんていう状態だったわけですよね。だから、移転というのは軍事的な技術レベルを上げることというのが本音だと思う。いまさら名護の市長にしてみると、「軍民共用の飛行場じゃなくちゃいやだ」と言ったために40メーターの滑走路に反対なんですね。少なくとも1000メーターの滑走路で旅客機が発着できなきゃダメって、だから私は市長さんにはいやー那覇から名護まではヘリコプターで旅客を運んだら、40メーターで済むんじゃないか、って言ったんですけどもね。普通の小型旅客機でやりたいって、言ってましたね。

江上:最初は1000メートルくらい

下河辺:1000メーター

江上:1000メーターですね。1000メーターが1600になっていって、いま2000メートルに。

下河辺:そうです。それが地元の要望なんです。

江上:軍民共用のあれで、民のほうで伸びていったわけですね。

下河辺:そうです。軍の方はもう40メーターでいいっていうんだから。なんか変な話になっちゃいましたよね。

江上:そうですよね。軍は名護市が民間の部分で使いたいからということで、地元の人達が要請しているんだということなんですね。大型化したというのは、ですね。

下河辺:しかし、民間空港じゃあ採算合わないっていうことで、名護市が財政負担するのは無理ですよね。


●復帰前後の離島視察の思い出話

江上:70年頃の話に戻りますけれども、70年に沖縄にいらっしゃったときに、復帰の準備をなさるために西表とか離島もかなりまわられたというお話しも伺いましたし、視察も兼ねてかなり長く沖縄にいらっしゃった。

下河辺:そうです。米軍のヘリコプターで沖縄を全部見て回った。空から。

江上:トータルでどれくらい何ヵ月くらいいらっしゃったのですか。

下河辺:あのときねえ、1週間、2週間くらいが長いほうで、

江上:1週間くらい

下河辺:年中行っていましたんで、年間通じて、40、50日にはなったんじゃないですか。

江上:はあ

下河辺:そうしたら、帰りの記者会見であんたは住民税払ったかって言われたんです。どうしてですかって聞いたら、1年間の居住日数が30日を超えたら、住民税を取るっていうことになってますと言われて。

江上:そうですか。30日超えたら住民税を(笑)

下河辺:それじゃ、私払いますって言ったんですよ。そしたら、県庁の人がいやこの先生は県側の招待客だから、税金は取れないってなんて言って大笑いしていました。

江上:そうですか。なんか不思議な話ですね。

下河辺:それはそうでしょうね。しかも、私が行くとあのころは、送り迎え、いつも飛行場で降りたり乗ったりするんですけども、輪を組んで、その歓迎ってこととそのお湧かせっていう歌をうたって、肩を組んで大変でしたよ。

江上:そうですか(笑)

下河辺:なんか、そういう漁船を送ったり迎えたりする歌が民謡であるんですね。そのう、みんなで歌ってくれるわけですよ。だから、みんな飛行場から飛び出してきて何事だって見ている。

江上:いい時代ですね(笑) じゃあ、そのときに、離島もかなりまわられた? 西表以外にもあちこちまわられて、沖縄全体を視察されたわけですね。

下河辺:絶対、竹富から西表に行きたいって言って、西表に行くことが非常に悲願でした。連れてってくれましたね。

江上:西表を一番強く希望されたんですか。

下河辺:そしたら、希望したら、何でもって言ったから対応しなくちゃいけないのに、あの頃、船がないんです。西表は、漁船みたいな小さな船が行くんで、先生を漁船で運ぶってわけにはいかないって言うんで、どうしようかと思ったら、そのう、もうすでに廃船したボロ船を雇ってきて、それで行くことになったんですね。そしたら登録されていない船なんで、正式の航路じゃ行かれないって言って、船長もなんか私と同じ年くらいか私より年取ったくらいの船長が、私がお供しますって来たんだよ。この船長、大丈夫かいって聞いたら、昔は大丈夫でした。

江上:今は分かりません(笑)

下河辺:今は分んない。特に西表の南から回って西海岸へ出るところが、三角津波で有名なんですね。あとは平気なんだけど、そこを入り込んで、西表に回り込むところだけがちょっと心配ですって言って、そこへ差し掛かったときは、ちょっと緊張していました。

江上:そうですか。命がけですね(笑)

下河辺:それでも面白いのが、その竹富の船に乗るために船着場へ行ったら、人がいっぱいいるんですよ。私を見物に来たのかなあと思ったら、船長が私のところへ来て、あの人達が乗せてくれって言うけども、いいでしょうかって言うのね。で、乗ってどうすんだって言ったら、自分の島に帰りたいって言う。そんならいいんじゃないのって言って、ほいで行ったんですよ。そしたら、私の乗った船はボロ船でも背は高いのに迎えの漁船は小さな小舟なんですね。だから、船の高さが違うんですよ。だから、私は降りられないと思ったんですよね。一人一人縄で結わいて、降ろすのかなと。そしたら、おばあちゃん達が船が近づくと、大声を張り上げて、小舟の漁船に迎えに来てもらうんですよね。で、下に着くと、降りるんですけども、竹竿持ってきて、竹竿を小舟と大船(おおぶね)にかけると、おばあちゃんがその竹竿でつるつるっと平気で降りちゃうですね。

江上:竹竿に伝って降りちゃうんですか。

下河辺:そして、ありがとうなんて言って帰って行っちゃうんですね。1回見たからあとは安心しましたけど。島々にみんな竹竿で降りていって、それで、なんというか、行きましたけどねえ。電気もないし、自動車もないしで大変な島でしたよ。ジープを一台もって行って、乗り回してくれたんですけどね。あの頃は懐かしいですね。

江上:その当時、道もあんまりできていなかったですよね。

下河辺:道なんかないですよ。だから、軍用のジープでもなければ、走れなかったですね。

江上:いま、その西表にはリゾートホテルができる予定です。

下河辺:今はもう大変なもんですよ。

江上:住民が反対運動しています。

下河辺:えーそうですよ。

江上:大騒動になっているようです。

下河辺:島が壊れてしまいますよね。ただ、いのししがいっぱいいて、大変だって言いますから。いいのしし食べますかって言うから、食べるって言ったら大変なことになりまして、その日の明け方、いのしし狩りをやって、獲ってきて、撲殺して、肉を採って食べさせて、お昼に食べたんですよ。そしたら、これがうまいんですね。これが

江上:おいしいですよね。

下河辺:いっぱい食べて、おいしいって言ったら、そのとっておいてくれたんですね。その冷蔵庫のないところで、生肉残しておくってことは相当危険ですよね。だけど、島の人に聞いたら、当たって下痢しますけど、平気ですって言うんですね。そして食べたら、案の定下痢しましてね。大変だって言って、仲間が代わりばんこにトイレに行くんで、トイレ一つしかなくて、困ったんだけれども、いやー我慢して順番にやってくださいと、夕方になったら、みんな治りますって言ったら、本当に5時過ぎたら、治っちゃう。びっくりしましたよね。そしたら、その翌日も先生食べますかって言うから、ちょっと今日は帰んなくちゃいけないんで、って言って、それでも、ちょっとは食べたんですけれどもね。「西表のいのしし事件」って言って有名でした。

江上:ああ、その頃の西表は、まだ本当に自然は手つかずで、良かったでしょうね。

下河辺:それでもね、米軍が島全体になんて言うんすか、あれ、薬まいちゃったんですよ。

江上:あ、そうなんですか。

下河辺:なんだっけ。病気があったな

江上:マラリア

下河辺:あ、マラリア。それで、島が真っ白くなるほど、マラリアの薬まいちゃった。そのために、あの川に生き物がひとつもないんです。だから、船で行くと気持ちが悪かったですね。魚も鳥もぜんぜんいないんです。

江上:その頃、米軍がまいていたんですね。

下河辺:まいたんです。はい。それで私が米軍に文句言ったら、あなたはお陰でマラリアにならなかったんですよ、なんて言われたりして、そういう時代でした。

江上:西表のマラリアってかつては有名でしたからね。

下河辺:そうですかね。本当、物量はすごいですよね。あの島全体が白くなるほどまいたんですからね。

江上:ほかに行かれた島で、西表以外に印象に残っている島はおありですか。

下河辺:そうですね。なんかいろんな島行きましたよ。それでそういうところで、人々は本島へ移住したがっている時代でしたからね。生活ができないというんで。

江上:離島では、

下河辺:その頃、東京から若者が、沖縄の島へ行きたいって言うのが少しずつ増えてきたんですね。それは沖縄の伝統技術とか染色なんかを勉強しに行きたかったんですね。だから、沖縄の伝統技術っていうのは、なんていうか本土の特に東京の若者で守られていったのですね。地元の青年達は、もうそれどころじゃないって言って、英語の勉強して沖縄の経済の助けをするという方向に向いていましたからね。久米島なんて、おそらく県民が一人もいない時代があったんじゃないですかね。

江上:久米島ですか。

下河辺:ええ。そして、こっちから行った青年達で、経済をもたしていた。本当のおじいちゃん、おばあちゃんが、青年達の先生として暮らしていただけで、若者はほとんどこの前移住したばっかりじゃないですかね。

江上:そうですね。久米島だったら那覇に近いです。教育の問題もありましたしね。久米島も竹富ももちろん行かれていますよね。

下河辺:ええ。

江上:竹富はいまはもう、非常にそれこそ、本土の若者達が移り住んで、竹富のお年寄り達とも一緒になって、観光の島として整備されていますけども。その当時も、やっぱり竹富はそういう感じだった。

下河辺:竹富には島の役場が竹富にあったもんですよね。島に作っちゃうと、本土とのあるいは県庁との連絡が不便なんで、竹富に何とか島役場とか屋久島でさえもあそこに役場を置いたのですからねえ。だから、あの辺だと竹富がいちばん中心都市でしたね。


●政府の復帰対策について

江上:話を変えますが、先生が最初に沖縄へ行かれたのは、1970年の何月でしょうか。

下河辺:確かねえ、11月くらい

江上:ああ、じゃあもう、70年の終わりの方ですね。

下河辺:終わりの方です。

江上:えー、そのときに、すでに沖縄復帰対策各省庁の担当官会議というの
が設立されていまして。

下河辺:設立されていますよ。

江上:そうですね。

下河辺:佐藤内閣が言い出したのは、1970年ですものね。70年に佐藤さんが沖縄の復帰なくしては戦争は終わらないっていう言葉から、関係省庁会議を開いたわけですよね。

江上:沖縄復帰対策閣僚協議会が1969年の11月。

下河辺:そうです。

江上:ですね。

下河辺:そうです。

江上:それを受けて、その年の12月に要するに各省庁の担当官会議が開かれて、沖縄復帰対策各省庁担当官会議というものが組織されるわけです。

下河辺:そうです。

江上:その中に行政部会とか、財政部会とか、産業経済部会とか、教育文化部会とか、社会労働部会、司法務部会、地位協定関係部会というのがあったんですけども、下河辺先生はこういうのには所属されてなかったんですか。

下河辺:しなかったです。

江上:ぜんぜん違うんですね。立場がですね。

下河辺:ええ。

江上:これらは実務関係の組織だったので。

下河辺:そうです。


●沖縄との最初のかかわり

江上:もっと大御所からの立場だったんですね。それで、屋良さんと話をされたのは、中心としてはおそらく大枠の話だと思いますけれども、屋良さんと最初お話されたときに、どういうのを中心にお話されましたか。

下河辺:まあ、沖縄っていうのは、島津藩にやられたり、明治処分を受けたり、沖縄の米軍との戦争なんていうことで、県民が自分の意見を述べたことがないんですね。琉球王朝の時代でも明の国に朝貢の儀をしていたような地域なんですね。そして、沖縄が初めて自分で計画を作るときがきたと言うんで、第一次振興計画の第一次って意味が琉球政府が初めてっていう県庁のいわゆる知事が第一次、第二次って作るという第一次とは違うんですね。その歴史上初めて住民たちが自分で計画を作るっていう事態になったわけです。だから、計画ができたら、部長一同が山中貞則大臣のところへ説明に来たんですね。そしたら、事務局から山中貞則さんが陳情書が来るから陳情書扱いで受けてくれって、言うことを注文つけていたんですね。そのために、受け取って説明を聞いたら、山中貞則がいやーご苦労でしたと、我々もこれをベースに検討したうえで、沖縄の振興計画を決めたいって言ったんですね。だから、その場でもって私は、その応えは、貞則さんらしくないと、事務方に言われてんじゃないですかって言うと大笑いになって、お前はどうすんだって言うから、琉球の歴史の中で自分達で作って政府にもってきたのは、これが初めてなんであって、そのことが非常に政治的な意味があるんで、その県民が初めて、政府に訴えた計画としてこれを尊重して実行に移していきたいっていうことを私は貞則さんから期待していた。って言ったら、貞則が立ち上がってね、俺は間違ったとこれを受け取る態度として、さっき言ったのは取り消したいって言って、それで、これを基本にして政府として沖縄対策を講じたいって言い直してくれたんですよ。それは他の大臣だったら、面子じゃそんなこと言えないでしょ。貞則って言うのはそこのところ立派ですよね。そのため、引き揚げてから大騒ぎになりましたね。沖縄の担当者達が十人くらいで、喜んじゃって感激して大変になりましてね。その晩の宴会は大変でしたよ。

江上:そうですか(笑)。

下河辺:全員が正体もなく酔っ払っちゃって。私はその酔っ払いの始末の係を。だけど、私しか正気なのがいない。それで、宿舎まで送り込んで、寝ましてねえ。

江上:ああ、そんなに喜んだんですねえ。そのとき、琉球政府の人達は。

下河辺:そしたら、翌日勢揃いして、お詫びとお礼にやってきてくれて、それが私の最初の仕事でしたね。

江上:琉球政府が最初に作った沖縄長期経済開発計画ですね。

下河辺:大城さんって面白い部長さんがいましてねえ。大城守って言って、沖縄の部長として何でもやってくれていまして、彼自体はジャカルタかなんかで戦争行ってきて帰ってきた復帰三人のうちの一人かなんかで、私なら何食べても下痢はしない、なんて威張っていたおっさんで、確かになんか屋久島のいのししで、彼はなんともなかったですね。そういうおっさんに救われて沖縄の計画を作りましたけどね。

江上:これは沖縄長期経済開発計画を山中長官のところへもってらっしゃる前に、草案の段階で、下河辺先生に相談とかあったんでしょうか。

下河辺:誰から。

江上:琉球政府の方から。

下河辺:いやいや琉球政府は直接作業をやっていました。

江上:本当に自分達で作って。

下河辺:ええ。

江上:日本政府側と打診も何もなく。

下河辺:ええ。

江上:ちゃんと自分達で作って。

下河辺:ええ。

江上:それで、持って行って。で、まあ普通、陳情という形で、日本政府側
は聞き置こうということになるわけですけれども。下河辺先生はそういう言い方ではダメなんだとおっしゃったわけですね。

下河辺:そうです。

江上:意義付けをちゃんとしないといけないと。琉球政府の方はそれでとても感激されたわけですね。

下河辺:琉球王朝以来、初めて自分達で作った計画を権力に持ってきたんだから、権力はそれを丁寧に受け取らなきゃうそだ。と言ったら、山中貞則という人は本当にそうだって言って、受け取ってくれましてねえ。

江上:この最初に琉球政府側が出した沖縄長期経済開発計画が、その後の第一次振計に生かされているんですか。

下河辺:それが第一次振計です。

江上:これが第一次振計。要するにこれがそのまま、ということですか。

下河辺:はい、そうです。第一次振計の前のやつは、米軍に出したものです。そして、日本から大使が行っていましたから、日本の大使を通じて米軍に渡した計画なんです。それを日本の政府として、県庁としてつくったのが、第一次振計。

江上:じゃあ、ほとんどもう沖縄の琉球政府、沖縄の人達が全部作ったものが、第一次振計に反映されていると。

下河辺:反映じゃなくて、第一次振計とは沖縄の計画ですからね。そして、それを受けた日本の沖縄開発法に基づく計画っていうのがいま言われた政府の計画なんですね。


●一次振計の評価

江上:それで、一次振計は、それでスタートして、一次振計でかなりインフラが整備されましたし、まあ経済成長もそれなりに十年間で堅調に成果を上げたというふうに。

下河辺:上げた面と上げない面と両方あるわけで、

江上:ああそうですか。

下河辺:上げた面としては、琉球人が自分達が日本人だって認識を深めたっ
ていうのが、非常に大きいんじゃないですか。で、二つ目は、インフラの国の財政が非常に効果を上げたっていうのがあるんでしょうね。三つ目としては、米軍基地っていうことについての理解を安全保障上認めるっていうことになったんじゃないですかね。

江上:沖縄がですか。

下河辺:その計画の中でね。その三点というのが、沖縄の計画の中で認められた大きなポイントだったと思うんです。

江上:屋良さんは、基地問題を抜きにして、沖縄の計画は有り得ないというようなことを言って、佐藤内閣に建白書を渡されたりとかありましたよね。でも、日本政府は基地問題はちょっとそっとしておいて、経済振興の問題と切り離すような傾向が。

下河辺:いやあ土地問題で法制上裁判所との争いがあったわけですよね。

江上:土地問題ですか。

下河辺:ええ。土地っていうものを米軍に与えることの権利をどこに求めるか、っていう話になって、沖縄の中に米軍に土地を貸す根拠は何かってもめたんですね。それを屋良知事さんは、そのう地方裁判所の判決に待ったんですね。で、福岡で判決があって安保条約の下で土地は米軍に貸すということを正式に止むを得ないものだということを認めたんですね。あのときに裁判官が日本の土地は一坪といえども米軍に貸すことはできないって判決をしてたらどうなっていたでしょうね。

江上:大変なことになっていたでしょうね(笑)

下河辺:その判決で知事さんは助かったと私は思うんですけどね。

江上:板ばさみになっていましたからね。

下河辺:板ばさみになっていましたね。


●73年のオイルショックの影響

江上:沖縄が復帰した1972年に、復帰したその翌年に、つまり1972年に第一次振計が、沖縄の経済振興政策がスタートするわけですけれども、その直後、73年にオイルショックが起きていますね。やっぱり、オイルショックで日本の経済が非常な窮地に追いやられる状況になります。そのことは沖縄の経済振興政策には影響はなかったんでしょうか。

下河辺:影響っていうことは、オイルショックの影響じゃあなくて、石油基地を沖縄に作る作らないで、もともと論争点なんです。

江上:はい、CTS問題ですね。

下河辺:そして、私達は、備蓄を含めて石油精製を沖縄でやるっていうことは少し無理があると。その二次加工するときに、輸送の距離が長すぎてやっぱり日本としてみると、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海なんかでやる方がいいから、沖縄は意味が無いっていうことを言ったんです。それで三菱なんかが、やろうとしたのが中止したんですね。それはオイルショックのためではないんです。立地条件が良くないっていう。その後、日本経済全体がオイルショックの影響を受けんですけども、私なんかはオイルショックを受けて良かったと思うのは、省エネっていうことが普及したことですね。だから、オイルショックがなかったら省エネが進まなかったら、今どきだらしなく、石油をいっぱい使っているような国だったかもしれませんね。

江上:沖縄の経済界の人々の理解では、オイルショックがあったから、あのとき、沖縄は日本の企業に沖縄に来てもらいたかったんだけれども、オイルショックで日本経済が悪くなったから日本の企業が沖縄には来れなくなった、というような言い方をしているんですけども、それはどうですか。

下河辺:関係ないですね。

江上:関係ない。

下河辺:それで、むしろ日本の企業が、本土並み復帰という言葉のひとつに、ちゃんとそのう、なんていうんですかねえ、沖縄に企業立地するっていう促進をやったわけです。そのときに、理解してやろうとしたのが、松下幸之助一人だった。幸之助さん土地まで買ったんですよ。具体的には工場作るところまで、いかれなかった。立地条件が悪くてコストがかかって、沖縄では無理っていう結論になったんですね。だから、あの頃非常に真剣に議論してくれたのは、ナショナルと同時に、なんて言うんすかね、えーとね、日本の企業で、松下ともうひとつなんでしたっけ、関西の電気会社。2社ほどいたんですよ。ところが、2社とも具体的にはなんなかった。だから私は、沖縄に工業化を進めるっていうときに、どんな工業化を進めるのかをもう一度議論しなおせって言ったんですよね。それは伝統的な芸術品であるとか、繊維品であるとか、沖縄らしい工業製品を目論んだほうが良いと。日本で世界のトップクラスの企業っていうことをすぐに狙うのは無理っていうことを言ったときがありますね。だけど、そういうのを政府で、沖縄に言える人がいないんですよ。本土並み復帰としては、日本の企業が立地してしかるべき、という立場でいますからね。だけど、企業が行かないって言うのに、「行けっ」と言うわけにはいかない。という変な態度になってしまった。
江上:最初の頃はまだ革新が強くて、労働組合が強かった。松下幸之助さんが工場設置をとりやめたのは、労働組合が強いというのを嫌ったという見方がありますが。

下河辺:そんなことは絶対無い。

江上:それはないですか。

下河辺:松下幸之助は労働組合を尊重する経営者ですからね。だから、ナショナルが強くなったのは、組合と経営者の提携によるっていうのが、常識ですよね。だから、幸之助は沖縄でもそれをやりたかったんです。ところが、沖縄の労働組合っていうのは、政治家気取りで、労働者じゃないっていうのに気がついたときは、がっかりしてましたね。働く意欲から言って来てんじゃないんじゃないか。革命でも起こすつもりでやってるんじゃないかっていう。

江上:呆れたんですかねえ。

下河辺:呆れたんですね。そんな子供みたいなことを言ってどうなるのっていう。

江上:それはあれで、それよりやっぱりもっと深い、立地条件とかなんらかの採算が取れるような条件が整わなかったということですよね。水の問題とかいろいろありましたかね。


●流通基地、情報基地としての沖縄

下河辺:水の問題はあるし、労働力の問題はあるし、資源が輸入しかないし、ちょっとした市場は遠距離だし、産業的な立地としては非常に苦しい立場ですよね。琉球王朝以来、あそこは生産基地であるよりは流通基地であり、情報基地であったわけですよね。

江上:現在は情報産業としてマルチメディアとかなんとかということで、一生懸命経済振興策をやろうとしてるんですけども。
下河辺:いやーそれは政府がそういうハイテクポイントを作りたいって言っていますけどね。あんまり成功しませんよ。それより、米軍が言っているけれども、米軍の通信基地を返還を求めて、沖縄のものにして、だいたい3000キロから5000キロのインターネットの中心になったらどうかっていう。そうすれば、日本経済全体がその通信のインターネットのセンターを使うに違いないって言ってくれたのが、通信の専門家のアメリカの兵隊でしたけどねえ。海兵隊っていのは、そういう役割を果たすと思っているんですね。日本のためになんなきゃ駐留している意味がないって言ってやってますからね。海兵隊を敵に回さないで日本の発展のために大いに利用したらどうですかね。

江上:米軍の通信施設を民間で共用して、自前でやるというのはちょっとコスト的に大変ということですか。
下河辺:大変ですよね。


●海軍病院の積極活用を

江上:まあ、アメリカは最先端のものをもっているわけですし。

下河辺:アメリカは軍事費でやったから、やれたんで、民間企業としたら、やれないですよ。特に沖縄の海軍病院っていうのは、もっともっと有効に日本は、活躍してもらったらどうですかね。日本の医師法っていうものが、なかなか邪魔になって、外国の病院を入れることができないっていうトラブルになっていますけどねえ。なんとか沖縄だけ、特例措置を講じて東南アジア一帯の医療機関になったら、どうですかね。

江上:そういう発想を、私は沖縄に居たときに何回も聞いた気がしますけどね。

下河辺:いやあ、沖縄県人でそれをやりたいって、ここ十年やって、ここへも通ってくる人がいますよ。

江上:あ、そうでしょ。

下河辺:だけど、厚生省が、なかなかそこまで踏み切れなくて、彼の活動が、まだみのっていないっていう状況ですけども。沖縄の海軍病院はもう、軍事的な役割の病院というよりは、東南アジアのマイナーな病院の技術的サポートが一番大きなテーマですからねえ。だから今は、東南アジアの小さな病院のがん患者なんかは沖縄の海軍病院の世話になっていることも多いんじゃないすかね。私も海軍病院の治療を見せてもらいましたけど、凄いですね。その入院している患者をそのテレビで、データを全部沖縄へ映像を写して、診断してんですね。その地元の医者にああせいこうせいって、治療を指示して、毎日のようにその患者チェックして、ああこの薬はダメだからやめろとか、今度は新たにこれを飲ませてみろとか、医者っていうのは激しいもんで、私が行ったとき、ちょうどたまたまなんですけども、これはもうおしまいだよと、明日か明後日でおしまいだなあと、言ったりしてんで、いやあずいぶん激しい診断すんだなあと思ったら、その診断された地元の医者が、ものすごく喜んで、もうどうやっていいか、おどおど手を尽くしようがなくて、困っていたら、もういずれにしても明日か明後日って聞いて、あとは冥福を祈るだけになったら、うれしいって言って、明日から楽に死ねるようにっていうことだけやります、なんて言って、ああ、こういう役割ってあるんだなと。

江上:海軍病院っていうのは、沖縄の人達の間でも評価高いですよね。

下河辺:ああそうですか。

江上:私が1977年に行ったときに、その後、副知事になられた比嘉幹郎という琉球大学の教授が海軍病院のことを非常にすばらしいとおっしゃっていたのを覚えています。

下河辺:ああそうですか。

江上:これは、世界最先端の病院だと。彼はアメリカにも留学していますから、米軍内部のことも良く知っていたようです。
下河辺:非常に先端的だけであるだけじゃなくて、私が海軍病院に行って、皆さんのいちばんの自慢話を聞かしてくれって言ったんですね。大変なこともあって、ダメなこともいっぱいあるだろうけど、それよりは自慢できるものを案内してくれって言ったの。産婦人科なんですよ。そして、私は軍病院で産婦人科が自慢とは夢にも思ってなかったんですね。で、産婦人科、何が自慢ですかって言ったら、早熟児を助けることが、世界でできない医学上の技術になっているって言うんですね。で、早熟っていうのを助けたくなったのは、ベトナム戦争で、お産する女性が非常に多くなって、そいでそれが大部分、恐怖感から早熟だったんすね。そうすると、早熟のまま死んじゃって欲しいっていう女性もいるらしいんですね。産んじゃったら後が大変だって言う。ところが、やっぱり自分の子を助けてくれって飛び込んでくるというので、早熟児の医学を発展させたっていうのは、自慢だって言って、なんか産婦人科見せてもらいましたね。産婦人科だから見るためには、なんって言って、白衣を着せられて、医者のつもりで来て下さいって、行きましたけども。産婦人科の患者さんがいっぱいいましたよ。

江上:そうですか。それは意外な話ですね。それは初めて聞きました。

下河辺:それでも、日本の婦人をそこへ入れることを日本の医師会が許さないんですね。これは医師法の相手じゃないからって、だから、沖縄に来ている外国の女性ばっかり、世話になっていましたね。

江上:じゃあ、沖縄の人はそこで、ぜんぜん診てもらうことができなかった。

下河辺:そうですね。よっぽど、特殊な基地で働いている人が、少しは居たようですけども。いわゆる県民の患者としては誰も行かれなかった。

江上:いい病院だってわかっていても。沖縄の人にはその陰で高嶺の花だったわけですね。

下河辺:それにアメリカの兵隊に診てもらうっていうのが、なんとなく嫌だったんじゃないすか。日本の女性にしてみるとねえ。


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